お料理

社長

午前11時ともなりますと、家内が“のれん”を出します。 清めの塩を入口にちょんちょん。
「さぁ、みんなお客さん来やはるで」………言うが早いか、
「今日は、もうよろしいでしょうか」…と、お客さんの声。
「どうぞどうぞ10人さんですな。」お二階へどうぞ
「この部屋変わっとんな、おやじの趣味かいな。」…
はい、趣味と実益を兼ねまして。このテーブルは蔵の戸、足は一斗枡。
それに曳山の絵でも部屋の雰囲気を…「へぇー、凝っとるな。」ところで、ここに珍しくて、美味いもんがあると聞いてきたが、なんや…
名物の写真メニューでどうぞ。
品物くるまで、茂美志屋の歴史や思い出話などをちょっと「おしゃべり」しても、よろしいでしょうか。

大正元年に、祖母がこの地で「うどん屋 紅葉や」を始めたのが町資料に残っておりましてな。
祖父は大工だつたそうですが、早死にしたそうです。
二代喜三郎が大正中期祖母が亡くなった後、引き継いだようです。
喜三郎は結構な事業家で、和食・洋食・麺類・ランチコーヒー付メニューの看板が今だに残っています。

この頃に店名を茂美志屋(現在使用)に変更して、従業員も20人位いて長浜の麺類業組合長を努め
日本麺類業組合理事としても他県まで足を伸ばし活躍をし、
私もカバン持ちとして、ついて歩いた事を覚えております。

終戦以後は事業を縮小して「うどん屋 茂美志屋」一本にしぼりまして、家族で充分商売が出来ました。
私も世帯を持って、店を任された訳ですが、
趣味の多い性格でその時代のお遊びとカメラ・釣り・麻雀・鑑賞石等々忙しく、家内から怒られました。

「お客さんご注文の品、もうちょっとお待ちください。」

これから「名物のっぺいうどん」のお話しをさしてもらいます。
「名物のっぺいうどん」は、大阪のあんかけうどんに、京都の志っぽくうどんがくっつきましてな……・
一昔は地元のお客さんがよく食べられました。が近年飽きられまして、とんと売れなくなりました。
それを私流に手直しして、「名物 茂美志屋のっぺいうどん」として売り出し、 宣伝や・店舗の改装までして、黒壁さんと共にテレビや雑誌、新聞とマスコミさんが応援して下さって、どえらい人気が出てきました。

 「のっぺいうどん」には、いろいろ思い出がありまして。忘れられない事もございます。
30年程の昔ですが。春の曳山まつりの本日、4月15日に曳山まつりの役職で、
店は家内にまかせて、出かけておったのです。

その頃は定食とか、弁当が好まれる時代だったのです。
弁当は仕込みが出来、早く出せて、値も安い、これならお客さんに喜ばれると思とったんです。

ちょうどお昼どき、私の曳山が店の前を通りましたので、ちょっと一服に戻った時のことです。

「おやじ、ちょっとこいや」と声がお客さんからかかりました。
「はいはい、今曳山が通りますので、どうぞ見てください。」と言ったとたん。

曳山そのお客さんが怒りだしまして。
「そんなことで親父を呼んだんとちがう、店を嫁にまかせて祭にボケとったらあかん、わしは昔長浜に住んどって、祭に長浜へ帰って、お前とこへ食べに来るのが楽しみや。
今年のメニューなんや。おい、『のっぺいうどん』忘れたんかい。忙しいから言うて『のっぺいうどん』作らんとは、なにが、長浜のうどん屋や“のれん”おろせ!」満席のお客さんの中で随分しかられました。

その時以来心の中でこの『のっぺいうどん』を何とかしたいと思ったのでございます。

近年の食を考えますと冷凍や既成食品が多いなか、
先祖が残した郷土の料理は、近くより遠くの方が懐かしく、味わいの深いものだと思われ、
手作りの素朴さと伝承料理は何時までも伝えて行かなければならない。
又いつでも差し出せて、いつまでもお客さまから愛される店でありたいと、つくづく思うので御座います。

 「えらいおまっとうさん。品物出来ましたで。」長いことおしゃべりしてしもうてすみません。
大阪のお客さん、ほんまによう来てくださいました。
「これが私の作った、のっぺいうどんです。ご賞味下さい。」
 のっぺいうどん

私の経営のモットーは地場の食材を使い湖北長浜の食文化を提供することと、
こだわりの精神すなわち、郷土料理を基とした独自のメニューを開発、
店舗の雰囲気作りも蜜にして、充実した経営方針を打ち立て、町づくりに協力して、
日々邁進していくつもりでございます。